谷川俊太郎の詩集を読んだら懐かしかった。
谷川俊太郎 『さよならは仮のことば—谷川俊太郎詩集—』 | 新潮社
学生時代の授業で覚えている内容なんて大してないのに、詩はなんとなく覚えてる。
新たに読んだ詩の中で一番好きだったのが「コカコーラ・レッスン」だった。名前だけでは語りきれぬ、存在の認知。波の水が足にかかる、コーラのカンに手を掛けるなどの知覚がきっかけとなる体験の話。
世界に一定はあんまり無く、短い単語では説明しきれないものがたくさんあると思う。特に感情や個人の嗜好とか…。すべては自由に漂いながら「どちらかというとこれかな?」くらいの感覚でいい気がする。
名前はあると便利だけど時には過剰に整理される感覚もある。
憶測だけれどカテゴリーやラベリングに拘る人はたぶん、名前をつけないと不安という一面があるんだろう。そうと思うと少しかわいい。未知が怖いから知ってる・もしくはこれから先理解できるっぽい言葉を使って自分の範疇に収めたいのか。「そんなに怖がらなくて平気だよ」と言いたい気持ち。平気かは自分が決めることだから余計なお世話だ。
名前のつかない何かにとらわれた時には、なんだかあるものすべての輪郭がぼんやりしてくる感覚が生まれることがある。そんな状態では、なおさらすべてを綺麗にきっちり分けようという気なんて失われてしまう。
とはいえこういう感覚に苛まれない時、つまりは平常心で普通に生きてるぶんには、対象となることやものに付けられた言葉をもとに会話ができているんだからやっぱり名前とは便利で素晴らしい発明だ。
名付けの難しさがあるからこそ、とても良い名前に出会うと感動する。その反面、名前が強い意味を持ってしまって苦しむ場面もある。強い力を持っているものには真摯に向き合わないとダメだ、言葉に対してはいつも愛と畏れがある。
「そうさ、これは海なんだよ。海という名前のものじゃなくて海なんだ」
自分と異なる何かの間に境目を感じる時そこには輪郭と、隔たりと、名前の違いがある。
私は壁と認識し壁と呼ぶ壁に確かに触れて、そこに溶けることはないから当たり前に境目があることを思い出せる。もっとも壁は壁という名前のものではなくて壁である。
こうして境目から逆算して自分が自分であることも考えられないこともないが、人間は意志を持っていることを忘れてはならない。
顔がすごく変わってもめちゃくちゃ太っても、心がその人だったらその人の存在は存在のまま。
たとえ何か大きな出来事があって性格が変わっても、その変化すらその人を形成する一要素だ。
変わる前でも変わった後でも、その人の意思はその人のもので、変化を選んだのはその人。考える主体がある限りは存在は存在のまま。
すべてが虚構に感じたら、虚構と感じた自分の存在は逆説的に確かとなるわけだから自分からは逃れようがない。
そんなつもりなかったけど結局コギトエルゴスムだ。
こういう思想でいると考えることをやめたら自分は自分でなくなるかもしれない とも考えられるけど、私たちは死ぬまで生きるので、時が来るまではずっと何かしら考えてないといけない。じゃあ、心配しなくても大丈夫か。